足利義氏の墓 写真
足利義氏の墓

足利義氏(1189年〜1254年):鎌倉期の武将。足利氏第三代当主。
八幡太郎義家−義国−義康−義兼と続く源氏の正流の血筋で、
足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。 通称 上総三郎。
鎌倉時代初期(義氏の幼少期)は、源頼朝の完全な独裁政治が
行われていた。頼朝政権の強みは在地の武士領主層=軍事力を
持った領主、名主階級を御家人に組織していることにあった。
御家人は頼朝から領地の領有権や新恩給付などを受けた。
義氏 十一歳の時、父義兼が亡くなり(1199年) また、同じ年に
頼朝が死亡。頼朝の死後、御家人達は互いの権勢と領地を巡って争った。

二代将軍頼家は北条氏の策謀により、伊豆修善寺に幽閉されて殺され、
北条氏と他の御家人達との流血の斗争が渦巻いた。梶原景時、比企能員、
畠山重忠、和田義盛、三浦康時らは一族共々次々と滅ぼされた。
頼家のあとの三代将軍実朝も、頼家の遺子公暁に殺されたが、
その張本人は北条氏であったといわれる。こうして頼朝の子孫は絶え、
尼将軍といわれた政子と、その生家の北条氏が幕府の実権をにぎった。
有力御家人による評定衆など、合議制を採用し、貞永式目などをきめ、
執権政治をゆるぎないものとした。
北条氏は絶対の頼朝に従いながら、その同族である名門足利氏と
婿を通じてこれを巧みに懐柔、索制し、足利氏の権門と勢力を味方
にしながら、次々と政敵を倒し、野望を実現した。義氏は、頼朝を扶けた
幕府創業期の功臣、実力者たちが北条氏の策謀にかかって
滅亡していくなかで、あえて北条側につき、その大きな戦力となった。

祖父義康から父義兼の代になった頃は、足利庄は現在のほぼ足利市
全域から佐野市、館林の一部を含んだ広さになっていた。
そして義兼が源平合戦の功業によって本領のほかに、各地に所領をえた。
ついで義氏は、和田合戦で恩賞をえたほか、承久の変では美作国の
数か所を加賜され、三浦合戦でも上総権介平秀胤の所領を
与えられるなど、さらに北条氏から譲られたもの、諸氏から寄進を受けた
ものなど、多くの所領をえた。所領の経営は地頭代職や郷司職を設け、
年貢収納、勧農、開拓などを掌握していた。
建長二年(1250年)幕府から閑院内裏の造営を御家人が割当て
られたなかで、その小御所を義氏が単独で負担しているが、
事実当時このように本領はじめ多くの所領を有し、強大な経済力を
保有していた。 左馬頭、正四位下となり、関東の宿老とよばれ、
その所領は十七か国に及ぶ広大なものとなった。

樺崎八幡宮:父義兼が歿したあと、供養のために樺崎八幡宮を造営。
鑁阿寺大御堂建立:天福二年(1234年)には、鑁阿寺の大御堂を
建立。(義氏46才)義兼の法名は鑁阿である。鑁は金剛界大日如来であり
、阿は胎蔵界大日如来である。このため義氏が新たに建立した
大日如来大殿は堀内御堂と呼ばれ、一大仏地は鑁阿寺といわれるように
なったと思われる。

一山十二坊:仁治二年に、南大門に坊監を設け、外周の城地には
―東側に東光院、普賢院、不動院、六字医、
北側に浄光院、宝珠院、威徳院、延命院、
西側に金剛東院、千手院、竜福院、安養院を建てた。

義氏の歌:義氏の歌として「続拾遺集(しょくしゅういしゅう)」冬部に

霰ふる雲の通路風さえて
をとめのかざし玉ぞみだるる

という一首があります。

池の館:建長元年(1249年)義氏61才の時、法楽寺を建立。
幾多の政争、修羅場を乗り越えてきた義氏だが自身の最後の安らぎの地を
故郷の足利に求めた。両崖山の南稜、先端近くの東麓に阿弥陀浄土の
庭園を作った。この浄土庭園が法楽寺である。
                               2007年3月9日撮影