129 11月28日

どすーんでピコピコ。 

 『キキーッ!どすーん!』 「キャー!」 「大丈夫ですかぁー!」 「あれ、○○さん?」 「あ、斎藤さん!あれ、じゃこの子は?」 「そう、たく」 「すみません、大丈夫ですか」 「大丈夫よぉ。こっちこそすみませんだわ・・・・・・」
 はねられて、抱え上げられた私の傍(かたわ)らで、こんな会話があったようです。私をはねたヒトは、本屋を営む私の母とは顔なじみ、ちょっとオサレな服屋のおにいさんでした。
 学校を休んで自宅で静養していた事故の翌日、大きなプラモデル(縮尺12分の1、モーガンプラス8というクルマだ、かっけーぞ)と、お見舞い金を持って、お見舞いに来てくれました。車のプラモデルは大好きだったので、かなり嬉しかったです。お見舞金はその日のウチに、「テレビゲーム」 なるものに変わってしまいました。ウチの本屋の隣はおもちゃ屋だったのです。
 今ではごく当たり前のようにテレビゲームが普及していますが、当時は家庭用のテレビゲーム自体が存在していませんでした。私が買ったのは、任○堂の家庭用テレビゲーム機、第一号機ともいえるシロモノだったのです。
 ソフトを入れ替えるといった機械が出てくるのはずーっと後のこと、当時は機械自体にゲームが組み込まれていました。私が買った機械には、@テニスゲーム、Aバレーボールゲーム、Bホッケーゲームといった、三種類のゲームが入っていました(記憶はあいまい)。リモコン式のコントローラーなんかついていません。機械本体についたツマミがコントローラーです。
 画面の中央には、ネットやコート分けを意味する縦の一本線があります。左右の両端には、アルファベットの 「I」 のようなラケット代わりのものが、ツマミと連動して画面を縦に動くように存在しています。そのラケットの間を、正方形(当時の技術では丸く出来なかった)の球がピコーンピコーンと動くだけのゲーム画面です。
 今では誰もやりそうもない、単純で面白味のないゲームかもしれませんが、当時としては最先端のおもちゃでした。そうです。私は痛い思いと引き換えに、大好きなプラモデルと、最新技術のおもちゃを手に入れて、学校を休んで遊んでいたのです。あー楽しい・・・・・・。夕方、  呼び鈴が鳴りました。玄関を開けると、5、6名の友達が血相を変えて立っていました。
「あー、本当だ!いたー!」 「うん、いるけど・・・。なんで?」 「先生が、『たっくんは交通事故にあって、遠くの病院に入院している』 って言ったんだよ」 「え“っ、それで?」 「おもちゃを買って、みんなでたっくんの所に行こう、ということになって・・・」 「うんうん(なんかもらえるぞぉ・・・)それで?」 「あすなろ(本屋の名前)のおばちゃん(私の母だな)に聞きに行ったら、『あら、たっくんなら家で遊んでるわよ』 って 言われたから、確かめに来たんだ」 「うん、遊んでた」
 見舞いに来てくれたことは嬉しかったのですが・・・・・・。
 おもちゃ買ってから来いよな。
 良い週末を。 


から元気じゃない?

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