014 04月27日

オレオレその1。 

 今回から数回は、担任を理解してもらいます。「え゛、理解したくないよぉ・・・」 などと思わないで読んでみてください。今から20数年前のハナシです。なぜ理解が必要なのか・・・って?そんなモノは簡単です。私と諸君はソーイウ仲にならなきゃイケナイからです。ソーイウ仲ってードーイウんだ・・・? 「私の高校時代」 という題で、その昔、本校の新聞に寄せた原稿です。

 「私の高校時代」 について書いてください。なんて言われても、人様に話せるような大したものはない。それでも中学校までさかのぼってみると、なんだか人様に話できるようなこともいくつかあると思うので書いてみる。私は昭和四十年に東京の杉並で生まれ、その後すぐに神奈川県の横浜市に引越し、大学を卒業する二十五歳まで過ごした。だからこれからの話の舞台はそこということになる。
 小学校六年の時に、学○院と青○学院の中等科を受験した気もしたのだが、気がつくと地元の「美しが丘中学校」 という公立の学校に通っていた。一年の時に、五歳年上の兄のお下がりのエレキギターをもらったことがきっかけで、音楽に興味を持ち始めた。同じ様にギターを始めた友人が何人かいたため、自然と放課後は誰かの家へ集まってのテクニック自慢大会になる。バンドを組みたくても、皆が皆ギターなのでラチがあかない。そんな中、どうしてもバンドを組みたかった私は、二年になった時、親にねだって、バンドというものに必要な、ベースギターを買ってもらった。今振り返ると、親に物を買ってもらったのは、この時が最後のような気がする。
 そんなこともあり、ようやくバンドのようなものを組むことができた。「ようなもの」 というのはまだ完全ではないからである。ドラムス担当がいない。なにぶん中学生でドラムを持っているような友達などいないのだ。仕方がないから、幼稚園の時からの友人で、普段から何かと言うことをよく聞いてくれる奴に押し付けた。ドラムを買えというわけではない。普段は段ボール箱とお茶缶のふたをたたき、スタジオを借りて練習できる時は、本物のドラムをたたけというのだ。そうして我々は本格的に(?)バンドとしての活動を開始し、いつ実現するともわからない、初ライブを夢見て練習をしていた。
 三年になり、新設校だったうちの中学校は始めての文化祭を迎える。我々メンバーの心は踊った。なんといってもバンドを組んだ最大の目的には、「もてたい」ということがあったからだ。「教室を借り切ってライブハウスにしよう」 「音楽室の方が音響(おんきょう)がいいぞ」 「いや、放送室のスタジオはどうだ」「ほ、保健室のベッドは・・・」 様々なアイデアが飛び交い、盛り上がった。しかし、先生達に話を持ち込もうと、職員室に行った我々は、どどーんと谷底へ蹴(け)落とされたも同じになった。全員が同じクラスでもないし、部活動として学校が認めている団体でもない、そんな我々に、発表の場などあるわけがないというのである。
 「今から合唱部にでも入ろう」 「いや、リコーダー部はどうだ」 「ほ、保健部は・・・」 どうしようもないアイデアを出しながらも、落ち込んでいた我々に、ある先生が声をかけてくれた。「顧問(こもん)になってくれる先生を探して、有志(ゆうし)団体という形をとれば、文化祭に参加できるんじゃないかな」 当然その先生に顧問をお願いし、我々のことを再度職員会議にかけてもらったのは言うまでもない。
 かくして我々の参加は正式に認められた。「どこの教室をかしてくれるのだろう」 「やっぱり音楽室がいいよな」 「給食室なんてのもマニアックだね」 「暗幕(あんまく)のある理科室もいいよな」 「だ、だから保健室のさあ・・・」 あれこれ思案(しあん)したあげく、顧問になってくれた先生に教室の割り振りを聞きに行くと、「そんなものはない」 との言葉。一体どういうことかと問うと、文化祭二日目、体育館での合唱コンクールや、学芸部舞台発表なんかの日に参加するのが条件だというのだ。  


自分がしたくないことを、人に頼んではいけない

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