083 09月12日

4年前。 

 さ、今週も始りましたね。
 米国で起こった同時多発テロから、昨日で4年が経ちました。時差がありますから、日本では今日の夜の出来事です。最初、テレビ画面に映し出された映像を観た時、単なる飛行機事故かと思いました。飛行機が貿易センタービルに墜落するなんて、偶然にしては悲惨すぎる事故が起こってしまったな、と、そのまま画面を見つづけました。やがて2機目がビルに激突します。テレビの同時通訳の音声を聞きながら、ようやく 「事故」 ではなく、仕組まれた 「事件」 であることを認識した私がいました。
 阪神淡路大震災の時も、同じ感情を抱いたのですが、こういう大きな(「ヒト」 という単位で考えたら、事故や事件に大きい小さいは無いと思うのだが、あえて言えば・・・、ということ)出来事が起きた時、たった一人、テレビの前でぽつーんと画面を見ることしかできない自分って、なんて無力なのだろう、でかい顔してるけどちっぽけなニンゲンなんだな・・・と思ってしまいます。
 正直に言うと、若い頃(今でも充分若いハズだが)は、こういった出来事や身近で起きた出来事に対して、「しょせんヒトゴト、自分には関係ないよ、しーらない!」 といった感じの、野次馬(やじうま)根性中心の思考が強く働いていました。ところがちょいと歳をとって来る(やっぱり若くないのか・・・)と、そうはいかなくなるようです。街中で救急車を見かけたり、事故現場を見かけたりすると、「あ、大丈夫かな。大したことがないといいな・・・」 なんて思うのです。
 自分自身で救急車の世話(家族がね)になったり、事故を起こしてしまったりした時に、現場に居合わせてくれたヒト達の 「思いやり」 に触れたことがあるからでしょうか、こういったコトは歳をとってから多く経験しました。その時の大変だった気持ちを、少しだけもわかっている自分がいるから、自然と野次馬根性中心の思考が無くなっていったのだと思います。歳をとること=経験が増えることですからね。
 しかしながら、現在でも通り過ぎる救急車を見たり、画面の中の悲惨な映像を見たりしても、結局そこにいるのは、それらをただ眺めているだけの、何も出来ない無力の自分のようです。前と何も変わりがなありません。テロから4年たった今、テレビ等を始めとした各マスコミで、いくつかの特集が組まれていることでしょう。それらに触れる度、「ほーら、やっぱりお前はちっぽけなニンゲンだ・・・、4年前と何も変わってないじゃないか」 と、再認識してしまう私がいました。去年はそうでした。今年もそんな私がいました。変わるって結構ムツカシイです。
 けれどもね、私みたいなちっぽけなニンゲンがたくさん集まって、ひとつのモノゴトに向かっていけば、何か出来そうな気がしませんか。募金活動なんかもそのひとつでしょう。求ム、ちっぽけなニンゲン。
 できることから始めましょうよ。
 んね。  


心の日光浴をしよう。元気と喜びの太陽エネルギーを吸い込もう

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