61 07月04日

再び『星空の学校』

 先日、夜間中学の紹介をさせてもらいました。そこで教員をしているMUTOさん運営の『星空の学校』というホームページからの、もっと多くの人に夜間中学の存在を知って欲しい、生徒達の作文を読んで欲しい、という思いを受けて今回も紹介させていただきます。
 こちゅんじゃさん(仮名)という女性がいます。80歳を超えているのに、背筋がしゃきっと伸びていて、さっそうと歩きます。いつも冗談やしゃれを言っている、とてもさばさばした性格で、いじいじすることが大嫌いな人です。そんなこちゅんじゃさんの作文を紹介させてもらいます。
 諸君と同年代の頃も含めて、とても興味深い話です。

 大正七年八月九日済州島で生まれました。兄が四人いました。いまはひとりもいません。みんななくなりました。お父さんは一さいの時に亡くなりました。私はお父さんの顔は知らないのです。お母んは三十才でひとりになり、お母さん一人で四人の子を育てました。
 私は六歳の時から子守りに行きました。三年間子守りをしました。それからお母さんの手伝いをしたりしました。子守りをするとき、子どもが背中でおしっこをして背中が冷たくなりました。私はつねったりしました。それで私も泣いたりしました。
 私は七才の時から家の手伝いをしました。水をくみに行ったり、ごはんをたいたりしました。男の人が頭にかぶる帽子をあんだりしました。
 十五才の時に日本に来ました。大阪に来ました。本を作る工場でした。朝七時から夜十時まで働いて三十円もらいました二年間働いて病気になりました。それから二年間ほど働けませんでした。十七才の頃になって洋服のしたばりをしました。二年間くらいしました。それからお嫁にいきました。三年くらいは子どもがいませんでした。
     (略)
 昭和二十年六月二十六日、男の子を産みました。八月十五日戦争がかいじょになりました。仕事もないし、食べ物もないし、おやじは酒ばかり飲んであばれるし、どうしたらいいのか目の前が真っ暗でした。
     (略)
 いなかから、やみで売りに来た米を買って、また売ったりしました。そしてまた、やみたばこを紙で巻いて売ったりもしました。やみ米を買って売ったりで二年くらいしました。たばこを買って売ったり五・六年やりました。それからいろいろな事をしました。
 七十二才のとき(夜間中学に)入学しました。名前も書けませんでした。今はやと名前は書くようになりました。学校に来て毎日楽しくていつまでもいたいです。友だちといっしょに勉強して、先生にもよくおしえてもらいました。世の中に生まれていちばん楽しい毎日です。
 私は今まで子どもの卒業式も出席したこともなかったです。私が学校へ来て、卒業するなんて思ってもいませんでした。夢のようです。

 私も含めて、当時のことを知らない世代になってきています。こういうハナシって貴重だと思います。こちゅんじゃさん、MUTOさん、ありがとうございました。


呼吸の速さと深さを確かめてみよう。心の揺れは、呼吸に表れるから。呼吸に意識を向けたとき、自ずと心は落ち着くだろう。

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