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戦国武将 足利長尾の武と美―その命脈は永遠に― 会場写真




開催中の展覧会を、順路に沿って画像と解説でご覧いただきます。


美術館外観



まずは美術館正面玄関から。長尾氏の家紋が入ったのぼりが出迎えます。


美術館ロビー



正面玄関を入ると、主催者のあいさつパネルの前を通って最初の展示室1へ。




ここから先が展示室1。第一章「武将画人足利長尾氏」が始まります。ここでは、戦国時代の1466-1590年にわたって足利を統治した足利長尾氏の、「武将画人」としての側面に焦点を当てた展示をご覧いただきます。


展示室1
第一章「武将画人足利長尾氏」








展示室に入ると、中国・北宋時代の代表的な武将画人であった皇帝徽宗(きそう)の作とされ、足利学校が収蔵してきた《白鷹図》(史跡足利学校事務所所蔵)が衝立のパネルに設置されて存在感を放っています。さらにその周囲を、啓孫による《虎渓三笑山水図》(栃木県立博物館所蔵)をはじめとして、室町時代(16世紀)に描かれた9点の水墨画が取り囲んでいます。





展示室をさらに進むと、壁面のガラスケースには、左から、足利長尾氏第三代の長尾景長(かげなが)、第四代の憲長(のりなが)、第五代の政長(まさなが)がそれぞれ自身を描いたとされる肖像画が並んで展示されています(いずれも足利の大祥山長林寺所蔵)。



こちらは左から足利の大圓山心通院所蔵の政長像と、右は景長が描いた《山水図》(足利・草雲美術館寄託)です。





さらに展示は、初期には足利長尾氏と深い関わりを持ち、江戸期には書画の主流として隆盛をきわめた狩野派初代の狩野正信、第二代元信の秀作が続きます。



こちらは狩野元信の作とされる《山水図屏風》(栃木県立博物館所蔵)。



左の2点は、江戸初期に活躍し、足利出身といわれる狩野興以の《猿猴捉月図》、右の1点は《月下猿猴図》です(いずれも栃木県立博物館の所蔵)。



展示は、さらに江戸期の狩野派による作品をめぐった後、階上にある展示室2へと続きます。


展示室2
第二章「戦国武将足利長尾氏」




階上の3階へと移動し、展示は第二章「戦国武将足利長尾氏」へと入っていきます。ここでは、1466年(文正元年)の、足利長尾氏初代・長尾景人(かげひと)による統治から、1590年(天正18年)、第六代・顕長(あきなが)の時代まで続く、戦国武将・足利長尾氏の歴史とその背景を、足利市内に残る、武具や古地図をはじめとするやさまざまな史料でたどります。



第二章の展示は、長尾家の菩提寺である足利市内の大祥山長林寺に伝来する、室町時代の長尾家の具足《紺糸縅 餓鬼胴具足》(三ツ巴九曜紋章散)から始まります。



展示室2に入るとすぐに、初代・長尾景人をはじめとする、足利長尾氏初期の山城である勧農城(岩井山城)の写真バナーが視界に迫ります。





さらに足を進めると、長尾氏統治時代の足利を描き、大祥山長林寺に伝来する2枚の古地図《長尾但馬守居城之図》や城の遺物が展示され、現在の足利を俯瞰する写真パネルおよび、題三代の長尾景長から題六代・顕長までの約100年間に居城となった足利城(両崖山城)の写真バナーが目をとらえます。





こちらは大祥山長林寺に伝わる、桓武(かんむ)天皇からはじまり幕末の1864年(元治元年)の景風(かげかぜ)まで書き継がれた《長尾系図》。


続いて長林寺に伝わる長尾系図や位牌などの遺物、金剛山鑁阿寺に伝わる長尾各代ゆかりの書簡などをめぐった後、展示は後半の第三章「長尾顕長と国広」へと入っていきます。

第三章「長尾顕長と国広」



この大門をくぐるといよいよ第三章「長尾顕長と国広」。1569年(永禄12年)に六代目当主となった長尾顕長(あきなが)が、当時の北条氏当主・氏直から、主従関係を結んだ証として受けた名刀《本作長義(ほんさくちょうぎ》の写しを作ることを、顕長が刀工・国広に命じて完成したのが、希代の名刀として知られる《山姥切国広》です。ここではこの名刀が生まれる過程やその時代背景を探りつつ、国広の手による数々の名作をご覧いただきます。





いよいよ刀剣の登場です。まず最初にご覧いただくのは、国広の父とされ日向(今の宮崎県)で刀工をしていた旅泊による《刀銘「旅泊七十二作」》と、国広による最古の刀とされ、生まれ故郷の日向・古屋(ひゅうが・ふるや)で作られた《刀銘「日州古屋之住国廣作」》です。壁には国広の故郷・宮崎県の綾町古屋地区の写真パネルが設置されています。



《刀銘「旅泊七十二作」》旅泊作(個人所蔵)



《刀銘「日州古屋之住国廣作」》国広作(宮崎県総合博物館所蔵)



さらに足を進めると、刀身に彫られた「眠り布袋」と「夢香梅里多」の文字がはっきりと見られる特大のバナーをを背景に、国広が1590年(天正18年)、《山姥切国広》と共に足利学校で作刀した《脇指銘「日州住信濃守國廣作」(号 布袋国広)」》にたどり着きます。



《脇指銘「日州住信濃守國廣作」(号 布袋国広)》国広作(公益財団法人足利市民文化財団所蔵)




この展示エリアでは、国広による数々の名刀のほか、国広の一番弟子であった国路、国広の最晩年の弟子であった国貞の手によるものも含めて、6点の刀剣を存分にご覧いただきます。この画像では、手前から国広による《短刀銘「國廣」》、《刀銘「國廣」》、《脇指銘「國廣」》、国路による《刀銘「藤原国路」》、国貞による《脇指銘「和泉守藤原國貞」》および、奥のひときわ大きなケースに展示されているのが、国広の《刀銘「九州日向住國廣作」(号 山姥切国広)》です。



《短刀銘「國廣」》国広作(個人所蔵)



《刀銘「國廣」》国広作(宮崎県・綾町所蔵)



《脇指銘「國廣》」国広作(長野県・坂城町鉄の展示館所蔵)
こちらは、2014年に亡くなった俳優の故・高倉健氏が生前に所蔵し、その後坂城町に寄贈されたものです。






国広による希代の名刀として知られる《刀銘「九州日向住國廣作」(号 山姥切国広)》(個人所蔵)。背景の壁面には、右側にはこの《山姥切国広》の特大画像バナーが、左側には、長尾顕長が国広に《山姥切国広》の作刀を依頼した際、その元にした《本作長義》の画像バナー(実物は名古屋の徳川美術館が所蔵)が設置されています。



《刀銘「藤原国路」》国路作(個人所蔵)



《脇指銘「和泉守藤原國貞」》国貞作(長野県・坂城町鉄の展示館所蔵)



この展示エリアを出口側から見た画像。手前が国貞による《脇指銘「和泉守藤原國貞」》です。



このエリアには刀剣のほか、右側の3点、雪村周継による《欠伸布袋・紅白梅図》(茨城県立歴史館所蔵)のほか、左側の1点、国広と同じ時代を生きた宮本武蔵《眠り布袋図》(公益財団法人日本美術刀剣保存協会所蔵)が展示されています。



第三章の締めくくりでは、「足利長尾の終焉とその後」と題して、北条氏直、前田利家、長尾顕長による書状が展示され、戦国時代であった当時の情勢の一端を垣間見ることができます。


展示室3
第四章「足利学校|武人と文人のよりどころ」




最後となる展示室3での第四章「足利学校|武人と文人のよりどころ」では、室町時代から江戸時代にかけて、諸国から学徒が集まり、長尾氏をはじめとする武将たちからの保護、支援を受けることで、戦乱の時代にあって学灯をまもり通した、当時最大規模の学府「足利学校」に焦点を当てた展示をご覧いただきます。



足利学校の名声が最も高まった戦国時代、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、1549年(天文18年)、書簡で「日本国中もっとも大にして、もっとも有名な坂東の大学」と「足利学校|を紹介しました。当時の《東インド図》が足利学校に残っています。




1535年(天文4年)につくられたこの《孔子坐像》(史跡足利学校事務所所蔵)は、制作年代が明らかな木造の孔子坐像として日本最古のもので、どの角度から見ても坐像の目と視線が合う不思議さを持っています。



こちらの《文選》(もんぜん)(史跡足利学校事務所所蔵)は、6世紀の中国、梁(りょう)武帝の長子蕭統(ちょうししょうとう)(昭明太子)(しょうめいたいし)(501-531)の撰による詩文集で、春秋時代から梁まで約1000年間の代表的な文人の作品800篇ほどを集めたものです。金沢文庫の旧蔵ですが、1560年(永禄3年)、北条氏政が足利学校第7代庠主(しょうしゅ)玉崗瑞璵(ぎょくこうずいよ)に、易講義の礼として贈り、今も足利学校に残されています。今回の展覧会での唯一の国宝でもあります。







《武田勝頼禁制》(史跡足利学校事務所所蔵)は、1580年(天正8年)に武田勝頼の命を受けた家臣が出した文書です。



展示ケースの中の2点は《八幡大菩薩合祀記》、《稲荷大明神神像奉納由来記》は、1554年(天文23年)のもので、近年の保存修復工事の中で発見された、足利学校の歴史を具体的に表す重要な史料です(いずれも史跡足利学校事務所所蔵)。





徳川家康は、足利学校第九世庠主・閑室元佶(かんしつげんきつ)(1548-1612)(三要)を足利学校から京都・伏見に招き、足利学校の上方分校として、圓光寺を1601年(慶長6年)に建立しました。2点の軸《開山閑室大和尚真像》(瑞巌山圓光寺所蔵)と《閑室元佶像(複製)》(公益財団法人足利市民文化財団所蔵)は、閑室元佶を描いた肖像画です。右側の扁額は、今も圓光寺の本堂に掲げられている《扁額「杏壇」》(へんがく「きょうだん」)(瑞巌山圓光寺所蔵)で、この時代、京都の瑞巌山圓光寺に、足利学校の分校と言われた圓光寺学校が存在したことを示す重要な史料です。



閑室元佶(三要)を伏見に招いた徳川家康は、国内教学の発展を図り、『孔子家語』などの刊行を命じました。これらの印刷のためにつくられたのが、画像中央の《伏見版木活字》(瑞巌山圓光寺所蔵)です。この内に一部が足利学校にい送られ、《慶長木活字》として残っています。(史跡足利学校事務所所蔵)が残されています(一番右の箱)。また、画像左の2箱は、家康が木活字に続いて製作に着手した、鋳造による《駿河版銅活字》(凸版印刷株式会社印刷博物館所蔵)です。



閑室元佶が《伏見版木活字》を使って刊行した《標題句解》孔子家語》(史跡足利学校事務所所蔵)です。



江戸時代になると足利学校は、教育機関としての役割を徐々に終えつつありましたが、所蔵する貴重な史料を求めて、林羅山親子、貝原益軒、広瀬旭荘、渡辺崋山、吉田松陰など多くの知識人が訪れました。正面の壁に見えるのは谷文晁が1796年(寛成8年)、足利学校で描いた《秋景山水図》。足利市内の草雲美術館の所蔵です。


特別展示室





展示室1の右脇にある特別展示室では、「足利長尾氏130年の歴史」など、戦国時代足利を取り巻く勢力に関する解説を図解でご覧いただけます。

これらの解説パネルを以下でご覧いただけます。
→「足利長尾氏130年の歴史」解説へ


足利市立美術館
Ashikaga Museum of Art

〒326-0802
栃木県足利市通2-14-7

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