音楽歴
もうここは私がどんなバンドを組んで何をしていたか、ということの歴史をふりかえっていくだけです。私に興味の無い方には苦痛以外のなにものでもありません。早めの退散をお勧めします。
小学○年?
父親の部屋に呼び出されて「お前は兄ちゃんみたいにエレキギターとかうるさいことはしないよな?」「うん、しないよ僕は」という会話がある。この発言は後に覆される。得意な楽器は普通のハーモニカとアルト笛。
中学1年
兄からグレコレスポールカスタム黒をもらう。空洞だわデタッチャブルネックだわ、もう大変な状況だったが、月間漫画誌の裏表紙に載っている通販ギターよりはマシだと考えて重宝する。
「1週間で弾けるビートルズ」という本を買ってきてコードの練習。最初に弾けたのは「オール・マイ・ラヴィング」兄ちゃんが持っているバーニーのレスポールがうらやましかった。
中学2年
バンドを組みたかったし、兄も促すし(そりゃー弟がベース持ってりゃー、兄としては相手にこそはしてくれなくても、ちょっとした練習相手にはし易いだろうなー)フェルナンデスPB-50黒メイプルネックとZOOMベースアンプMB-30を、渋谷LICAビルの石橋楽器で買ってもらう。白のピックガードが嫌だったのでべっこう色に変更、PUも当時はやっていたディマジオのものに。見栄えはマニアックになった。
バンド結成。名前は「トランキライザー」(当時そんなテレビゲームがアーケードにあった)となるが、短期間でボツ。みなチャーが好きだったこともあり、CをSに変えて「Shar」というバンド名に落ち着く。最初にコピった曲はディーボのモンゴロイド。
野音にジョニルチャを見に行き、加部さんのベースにほれ込む。ライブ終了後はしゃぎすぎて噴水に落下。
当時よく通っていた靖国通りのちーと奥、ESPでナビゲーターJB-95イエローサンバーストを買う。加部さんと一緒、ごりごりぶりぶり。
中学3年
文化祭ステージで初ライブ。(Positive11・12参照)一躍人気者に。RCサクセションのライブ盤同様、「ようこそ」を1曲目にもってくる。清志郎の「オーケーカモンりんこわっしょー(小林和生?)」が「オーケーカモンはなこどすこい」のかけごえに変わってベースから曲が始まる。HNのHDの由来だったりする。ようこそ/ロックンロール/デイトリッパー/アリバイ/アブラムシ/雨上がりの夜空に
自分のギターが無いことを悲しみ、買うことを決意。ピートやアンガスやカルロスやフランク、あ、白いの持ってるジミも好きだったのでフェルナンデスSG-65ウオルナットを、当時入り浸っていたノア道玄坂のサウンドライクで買う。ピックアップカバーを外し、つまみも黒から金色に変更。
高校1年
ウチの中学校は少数派の中、多数派中学校の奴らが中心になり企画していた、高津市民会館での自主ライブのトラとして白羽の矢があたり「ばいきん」というバンドのお手伝い。ZodiacのM崎君と知り合う。前日練習のみだったが、パープル系が中心だったため、らくちんだった。以降「ベースなら拓だよな」を定着させる。(?)
トランペット吹いているO田君に誘われ、日野テルやマイルスのコピーバンド「セブン・ステップス」をやる。アンソニーやマーカスのプレイを盗もうとし始める。ちなみにO田君はミス○ル等のサポートメンバー、お兄さんは佐野○春さんとこのハー○ランドでばりばりやっていたギタリスト。後に出席させてもらう、お兄さんの結婚式二次会でのナマ佐野の歌声はぐっときた。
高校2年
先のM崎君らとハードロックバンド「357マグナム」(←モロパク)を組む。ライブハウスから録ったデビュー前のE・シェイカーや44マグナム、「宇宙船地球号」後のレイジー等の邦楽とメイデン、オジー、MSGやUFO等の洋楽を取り混ぜてじゃかじゃかやっていた。衣装はロック座等で購入。
マーカスの音にあこがれて、ESPで買ったプリアンプキットをJBにとりつける。すんごい、マーカスサウンドになっちまった。いっちゃあ悪いが、後に発売されるジャパフェンのマーカスモデルの音なんかとは、比べ物にならないくらい、クリアなサウンドだった。あ、「Shar」はオリジナルを演るようになった。
高校3年
文化祭用にサザンのコピーバンド「じんちゃんバンド」も組む。トラでやったバンド以外は活動中なので、4つかけもち中となる。頭の中はバンドのことばかり。あ、女もあったか。
「セブンステップス」「357マグナム」で交互に、ヤマハ渋谷店主催の中高生バンド合戦にも毎月のように出ていた。
浪人1年
髪の毛をばっさり切ってしまった都合上「357マグナム」からは足を洗う。受験勉強の合間にも練習したり、O田君の家へ行って曲作ったりを続ける。
たまプラな奴ら10人ほどでスタジオ遊びをする。オールナイトも度々。ウッドストック出演者はもとより、フリー、バドカン、フランキーミラー、ストーンズ、ドゥービー、グランドファンク・・・果ては子供ばんどまで、知ってる曲はすべてやった。
大学1年
ちょっとしたコネがあり、B級アイドル麻○真○子&キ○プ○ンのバックを「セブンステップス」で引き受けることになる。同時に、同じ事務所で売り出す予定の男性シンガーソングライターのバックもやらされる。
大学ではコンボ形式のJAZZ研に入部。ビッグバンドの連中を「譜面見なきゃなにもできねー奴ら、アドリブしてみろー」と目のかたきに。私は譜面が読めない。とりあえずということで、私の嫌いなカシオペアとかをやらされる。フュージョンてー奴らね。
石橋楽器で中古のフェンダーJB黒メイプルネック77年(?)3点止めを購入。やっとこさコピーモデルではなく、「本物」を手にする。こっこれがフェンダーだーっと日々なでまわす。
大学2年
大学ではあいかわらずよくわからない日本のフュージョニスト(?)達の音楽を演る。これもテクニック向上のためと思い、酒に浸りながらの部活動。O田君にも大学に来てもらい、次第に選曲が洋物に変わってくる。
どういうわけか大学の部室にジョージ大塚がやってくるようになる。みなけちょんけちょんにいわれてうなだれる。
バックの仕事は減ってきた。
大学3年
大学のOBと先輩に誘われて、ブラコンバンド「ICHIMOTSU BROTHERS」に参加する。オリジナルとソノ手のコピーを交えて、都内ライブハウスでちょこちょこやり始める。ザップ、バーケイズ、シック、マンハッタンズ、マイケル・ジャクソン・・・メドレーでやると盛り上がるもんだ。
JAZZ研のバンド「スーパー夫婦リズム」の方向性も決まってくる。オリジナルもあったが、マイルス、Tスコット、RTF、Dサンボーンン、Lリトナー等のカバーを演るようになる。
大学のリサイタルを見に来てくれていたナツイさんという人に、インディーズレコーディング参加を頼まれる。二つ返事で了解したものの、途中でうやむやに・・・3枚組み中7曲位は私の演奏。「海のもの山のもの」というこのアルバム、数年前に新宿紀伊国屋で見かけたきりで、あとはどうなってしまったかは知らない。一緒に参加していたタイコはのは元じゃがたらの人。ロック。
フェンダーJBにもプリアンプを取り付ける。しかしナビゲーターJBほどビンビンサウンドにはならず。ちょっと惜しかったがナビゲーターJBのフレットレス工事決行。これでようやくパストリアス。さよなら加部さん。
大学4年
「ICHIMOTSU BROTHERS」で毎月のようにライブ。新宿サウンドハウス、渋谷TAKEOFF7は常連さんということに。関わっていた事務所が徳○ジャ○ンよりオムニバスCDを発売するという話を持ってくる。レコーディングはしたが、結局お蔵入りとなる。やっぱりこの世界は水物だ。
同じような黒い音を集めた「SOUL TO SOUL」というライブ企画には毎回のように出させてもらう。対バンはジェームス藤木(クールス)やDAYBREAK BLUES BAND(寺中名人)やKING TONES等。どういうわけか出演したハコは次々と消えていくという現象がおきている。ライブイン、インクスティック芝浦、サウンドハウス・・・クアトロはまだあるようだ。
アパッチ野球軍のザイモクのような風体をしていたためか、ちょっとアレンジも入り、強制的にステージネームがザイモクX(エックス)となる。チラシにもこの名前が・・・
フェンダーJBのサウンドにどうも納得がいかなかったため、当時よく面倒を見てくれていた、池の上の高木’sHOMEでストラト同様3PUにしてもらう。ハーフトーンも自由自在。見栄えも強そうになる。将来はコレを抱えてベースマガジンの表紙を飾ることを夢見た。
大学5年
「ICHIMOTSU BROTHERS」は依然変わらず。今まで自分で一から作ったバンドがなかったような気がしたので、初めてバンマスになろうと決心する。基本的にはウシャコダのコピーバンド。こってこてのブルースをやるバンドにやっとたどりついた。バンド名は「ICHIMOTSU〜」に対抗意識をもって「○○○○ブラザース」とする。2回のライブのオープニングはBBよろしく「everyday〜」から。
その後
大学在学中に音楽での収入が安定しなかったため、やむなく業界から足を洗う。一体どっちの人生が良かったのだろうかと、考えることもしばしばだったが、今の人生が最高に良いに決まってるという結論のまま現在にいたる。