フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

意味・解説
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796 - 1866)とは、ドイツの医師、博物学者、日本研究者。
医師として来日し、日本の自然や文化に関する情報を収集、研究し、西洋に紹介した。鳴滝塾を開き西洋医学を教え、日本の医学の発展に貢献した。また、日本の西洋文化の普及にも貢献した。
オランダとのつながり
シーボルトは、オランダ東インド会社の商館がある長崎の出島に赴任した、オランダ陸軍の軍医。
日本の美術品や工芸品を収集しオランダに持ち帰り、オランダで日本文化が広く紹介された。日本に関する多くの書物を執筆し、ヨーロッパで日本に関する知識を広めることに大きな役割を果たした。
シーボルトが収集した植物や動物の標本は、オランダの「日本博物館シーボルトハウス」に展示されている。
1823年、シーボルトは日本という国家や民族、文化について情報収集するという使命を負って来日しました。オランダ商館医師として日本で働きながら、日本の植物や動物の研究、地図の作成、医学の教育などを行っていました。
来日して間もなく一緒になった楠本滝を「オタクサ(オタキサンの訛りと思われる)」と呼んでいました。後にアジサイに「オタクサ」と名付けています。
シーボルトは、薬草に関する知識を授けたお礼にと、日本人蘭学者から葵の紋が染め付けられた着物を受け取ります。他にも外国人が所有することを禁じられたものを入手していました。
ある日、立場を利用して、日本の重要な情報を収集しているという疑いを持たれてしまいます。
調査の結果、多くの機密文書や地図が押収され、日本から追放されてしまいました。没収されなかった一部の研究成果は持ち出すことができて、後に欧州で出版されました。
この“シーボルト事件”によって妻と娘を残して日本を去りました。後に娘のおいねは日本初の女医として功績を残すことになります。
画家の川原慶賀は、シーボルトの個人的な補佐として、19世紀初期の出島の様子を記録しています。長崎絵やオランダ人の絵柄をあしらった陶器などの工芸品は、長崎県立美術博物館、長崎市立博物館、神戸市立博物館で見ることができます。
19世紀は世界情勢が大きく変化した時代でした。オランダで研究生活を送っていたシーボルトは、鎖国を撤廃するよう促すべきだと国王ウィレム2世に進言します。
1844年、ウィレム2世の書いた国書が届き、幕府は配慮に感謝したものの鎖国の撤廃は拒否しました。1852年、アメリカが武力で開国を迫ろうとしているとオランダは再度開国を勧告しますが、幕府は耳を貸さず、黒船来航を迎えてしまいます。
日本とオランダの外交関係が回復して交流が再開されると、1859年にシーボルトは再来日を果たすことができました。
オランダ陸軍の軍医になって日本の研究を希望したことや、貴重な資料の展示品などから、シーボルトが日本への強い関心と好奇心を持った人物だったということが分かります。