オランダゆかりの物事典

鎖国

出島

意味・解説

鎖国とは、国が外部との交流を禁止または制限し、国内への出入りや貿易などを制約する政策のこと。

主に日本の江戸時代における、キリスト教国などの外部勢力からの干渉を防ぎ、国内の秩序を保つために実施された政策を指す。

オランダとのつながり

オランダはヨーロッパで唯一、鎖国中でも貿易を続けることが許された。

オランダとの貿易は、西洋の知識や技術をもたらし、日本の文化や産業に影響を与えた。特に医学や科学の知識は、日本の学問や医療の発展に寄与した。

1609年、オランダ東インド会社(VOC)が平戸に行き、幕府から正式に許可を得て商館を設置し、貿易が始まりました。1612年に幕府が禁教令を出し、1623年にイギリス商人が競争に敗れて去り、1624年にスペイン船が来航禁止になりました。

1639年にポルトガル船も来航禁止になり、ヨーロッパで唯一オランダのみが通商を認められ、1641年から長崎の出島で、窮屈な生活を強いられながらも日本と貿易を行いました。

幕府はオランダに貿易を認める代わりに、入港するたびに「オランダ風説書」による情報提供を要求しました。これによって日本は鎖国にあっても、広範囲な貿易活動を行っていたオランダから、最新の世界情勢を知ることができました。

さまざまな分野でオランダが繁栄していた時期で、「蘭学」と総称される医学や天文学、数学、植物学、物理学、化学などの知識も得ることができました。

オランダはキリスト教の布教を目的としている国ではありませんでした。情報や貿易品、技術、知識などが得られ、宗教的な脅威でもなかったので、鎖国という厳しい政策の中でも、オランダは交流を許されたのだと考えられます。

オランダは日本で需要の高い生糸を持ち込み、対価として銀や銅などを持ち帰り、輸出したり香辛料などを買ったりしました。鎖国中の長崎貿易は、VOCのアジア各地の商館の中で高い収益を上げて、経営は安定していました。

しかし、銀の産出量が頭打ちになり、持ち出しが制限され始めた頃、VOCの貿易も減少に転じました。やがてヨーロッパフランス革命が勃発し、一時は負け知らずだったオランダも制海権を失うほどになっていました。

フランス支配下で出島に入れた船は僅かで、商館員たちは収入源を断たれ、食料や衣服などを日本人に頼りました。商館長ドゥーフは蘭和辞書の編集を手がけ、日本の役人との関係は良好でした。そして出島にオランダの旗を掲げ続けました。

出島の三色旗はその頃、地球上ではためく唯一のオランダ国旗でした。

なぜオランダは鎖国でも貿易できたのか