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オランダゆかりの物事典

オランダの歴史の概要とは

オランダの国旗

〈オランダ史概略〉

古代:紀元前57年にローマ軍が侵攻。ライン川より南をローマ帝国が支配する。

中世:フランク王国が拡大し、8世紀にはオランダ地域を支配する。分裂や侵略を経て、962年に神聖ローマ帝国の一部となる。14世紀になるとブルゴーニュ侯国が支配する。1477年にハプスブルク家の所領となる。

16世紀:1504年に領主がスペイン国王となり、オランダ地域はスペインの一部となる。1568年にスペインに反抗し八十年戦争が始まる。1581年に独立を宣言する。

17世紀:1648年のヴェストファーレン条約で「ネーデルラント連邦共和国」が成立する。オランダ黄金時代を迎える。

18世紀:1795年にフランス革命軍に占領され「バタヴィア共和国」となる。

19世紀:1806年に「ホラント王国」となり、1810年にフランスに併合される。1815年のウィーン会議で「ネーデルラント王国」が成立する。1830年にベルギーが独立する。

20世紀:第二次世界大戦中の1940年にドイツ軍に占領され、1945年に解放される。ヨーロッパ統合の推進に参加し、1957年にヨーロッパ共同体に加盟する。

現代:2013年にウィレム=アレクサンダーが123年ぶりの男性国王として即位する。

古代のオランダ

紀元前1世紀から5世紀までの間、ローマ帝国がオランダ地域(現在のオランダやベルギーの一部)を支配しローマ文化が導入される。

オランダ地域はガリア・ベルギカ地方にあり、ナイメーヘンやユトレヒトなどは要塞から都市へ成長し、行政や文化の中心地として機能した。

ガリア・ベルギカ地方

古代ローマ時代の地方の一つ。現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク、北東フランス、西部ドイツに相当する地域を含み、重要な交易路や軍事拠点が置かれた。

紀元前57年、ローマ軍が侵攻し程なく制圧する。紀元前13年、ベルガエ人の居住地を属州として組み込む。ライン川がローマ帝国の北の境界となる。

ローマ文化の導入で交易や農業が発展する。1世紀頃、北側のゲルマン人と対峙するナイメーヘンやユトレヒトなどに要塞が築かれる。

69年から70年、バターフ人がローマに対して大規模な反乱を起こす。フリース人やライン川右岸のゲルマン人なども加わるがローマ軍に鎮圧される。

要塞や軍事拠点は、商業や交易、行政などの機能を持ち、周辺の人々や商人が集まる場所となり都市が形成され発展していった。

オランダの地理的な特徴や気候とは

古代のオランダは、ライン川より南のガリア・ベルギカ地方にベルガエ人(ケルト系)など、北部にフリース人やバターフ人(ゲルマン系)などが住んでいました。

ローマに対してフリース人やバターフ人の反乱が起きたこともありましたが、それ以外は友好関係を保ち、平和で比較的安定していました。

ユリウス・カエサルが指導したガリア遠征の記録「ガリア戦記」にガリア・ベルギカ地方が登場し、戦闘や政治、部族、地理について触れられています。

中世のオランダ

〈前期:およそ5世紀から10世紀〉

ローマ情勢が不安定になりフランク人が侵入する。フランク王国を建国し、支配を広げ、キリスト教の布教を進める。現在のオランダ地域を含む低地地方が支配下となる。

封建制度の下で領主と農民の結びつきが形成され、海岸沿いでは北海やライン川を通じて他の地域と活発な商業活動が行われ、交易の拠点が形成される。

フランク王国

中世ヨーロッパにフランク族によって成立された王国。5世紀にメロヴィング朝のクローヴィス1世によって築かれたとされる。

8世紀にカロリング朝が台頭し実権を握ると、カール大帝により大帝国に拡大し、一部を除き低地地方を含む西ヨーロッパを統一する。

9世紀、カール大帝の死後フランク王国は、843年のヴェルダン条約により西フランク王国、東フランク王国、中部フランク王国に3分割される。

中部フランク王国は王の死後さらに分割され、870年のメルセン条約により低地地方の大部分を含む領地は東フランク王国の一部になる。

10世紀、カロリング朝が衰退すると東フランク王国はオットー家の支配下に入る。962年、オットー1世が戴冠し神聖ローマ帝国となる。

オランダの歴史の年表とは

〈盛期:およそ11世紀から13世紀〉

ホラント・ゼーラント地方を治めるホラント伯が台頭する。デルタ地帯の開墾と堤防の建設が進む。排水に風車が使われ、干拓して土地を拡大することが可能になる。

ハンザ同盟への参加やギルド制度などにより商業や工業が発展し、アムステルダムやロッテルダムなどの都市が商業と交易の中心地として成長し繁栄する。

ホラント伯

885年、ヘルルフ2世と名乗る人物がノルマン人の首領を倒して勢力を一掃し、ホラント伯を名乗ったとされる。※ヘルルフ2世をヴァイキングの一人とする説がある。

ホラント伯は現在のオランダ中央部のデルタ地帯を勢力圏として、農業や商業、海事などの発展に貢献した。領内の経済的な成長や自治を奨励し都市が発展した。

1299年、ホラント伯家は断絶し、エノー伯家がホラント伯領を相続する。1345年にはエノー伯家が断絶し、バイエルン公国の支配下に入ることになる。

※ヴァイキング:9世紀から12世紀に海岸地帯で交易や略奪などをしたノルマン人。

810年にフリースラントがヴァイキングに狙われ、ドレスタットは834年から837年にかけて4度襲われ、863年の大略奪を最後にドレスタットは歴史から姿を消す。

841年、フランク王が2人のノルマン人首領に土地と爵位を授け定着を試み、うち1人のロリクはノルマン侯国を建て以後30年ほど支配する。

なぜ「オランダ(Holland)」と呼ぶのか

〈後期:およそ14世紀から15世紀〉

ブルゴーニュ侯国が支配し、強力な中央集権国家を目指す。後に神聖ローマ帝国の支配者となるハプスブルク家の支配下に入る。

ゴシック様式の大聖堂や教会など、技術と芸術が結びついた美しい建造物が建設される。

ブルゴーニュ侯国からハプスブルク家

1363年、フランス東部に創設されたブルゴーニュ侯国が巧みな婚姻政策や買収により領土を拡大し、一部を除くオランダ地域も支配する。

1477年に男子が途絶えブルゴーニュ侯国は消滅し、領土は分断されフランスに接収さる。候位は一人娘のマリーが継承し、低地地方を中心とする領土も相続する。

低地地方の議会が「マリーを女候と認める代わりに政策を見直し各地の伝統や習慣を復活させること」を求め、ホラントとゼーラントに“大特権”が認められる。

マクシミリアン王子とマリー女候が結婚し、オーストリアのハプスブルク家の支配下に入る。1496年、マリーの長子フィリップがスペイン王の二女フアナと結婚する。

フアナは長子カールが生まれるとスペイン女王となり、1504年にフィリップはスペイン国王フェリペ1世となる。低地地方はスペイン王国の一部となる。

カールが成人し、1516年スペイン国王カルロス1世となる。1519年、ハプスブルク家の本領を相続し、ドイツ王カール5世となり、神聖ローマ皇帝に選出される。

カールは勢力を拡大し、現在のオランダの地はすべて支配下に入る。1548年、カールは統一した低地地方の全17州を法的にドイツから切り離す。17州を不可分一体として相続していくこととし、各地方に対等な自治権を認める。

オランダの国民性や価値観とは

中世のオランダは、低湿地の開墾と堤防の建設が始まり排水用風車が登場します。

フランク人の侵入は、ゲルマン民族の大移動の一部と考えられています。

ノルマン人の侵攻が終わり混乱がおさまった11世紀以降では、ユトレヒト司教領、ホラント伯領、ヘルレ伯領、フリースラントの4つの勢力がしのぎを削りました。

神聖ローマ帝国は封建制度の影響の下で分権的な体制でした。皇帝の権限は限定的で、帝国内の諸候や領主が独自の権力を持っていました。

16世紀のオランダ

カトリック教会の権威を背景にした実態(寄付や儀式など)に反発するプロテスタントの宗教運動やカルヴァン派の信仰が拡大し、宗教改革が広まる。

スペイン国王が次々と新教徒を弾圧し、度重なる戦費の負担を低地地方に求める。人々の不満が高まり、八十年戦争が起きる。

八十年戦争

ネーデルラント諸州のスペインに対する反乱から始まり、独立に至った戦争。

1522年、カール5世が異端審問所を設ける。1550年、“血の布告”を出し、死刑をもって弾圧する。1555年、フェリペ2世がスペイン王になると弾圧をさらに強化する。

1567年、低地地方に派遣されたアルバ候が騒擾評議会(別名“血の評議会”)を設け、新教徒や責任者を反逆罪で処刑する。貴族たちは逃亡を余儀なくされる。オラニエ公もその一人で、ドイツへ逃亡し、財産は没収され長男は人質にとられる。

1568年、帰還したオラニエ公を先頭に反乱を起こす。1572年、ホラント、ゼーラントの2州が自ら州身分制議会を開き、オラニエ公を州総督に任命する。

1579年、カトリックの多い南部がアラス同盟を結成し、スペインに服従を誓う。これに対抗して、北部はユトレヒト同盟を結成し、反乱姿勢を維持する。

1580年、フェリペ2世がオラニエ公に懸賞金をかけ逮捕状を出す。これに対しオラニエ公が弁明書を発表し、1581年に反乱州側はスペイン国王廃位令で応じる。

1584年、オラニエ公が暗殺される。1585年、次男のマウリッツをホラント州とゼーラント州の総督に任命する。軍最高司令官にも任命され、軍事的才能を発揮する。

1609年、アントウェルペンで十二年間休戦条約が成立し、事実上の独立を果たす。

1621年、戦争が再開される。1625年、マウリッツ公が死去し、弟のフレデリック・ヘンドリック公が5州の総督と陸軍総司令官になり、軍事的成功を収める。

1646年、和平交渉が開始される。1648年、国際的に独立が承認される。

なぜオランダがオレンジ色なのか

16世紀のオランダは、八十年戦争が始まります。経済的自立と宗教の自由を求めるものでしたが、結果的に独立したためオランダ独立戦争とも呼ばれます。スペイン国王廃位令も独立の意図はありませんでしたが、独立宣言とみなされています。

蜂起の先頭に立ったオラニエ公ウィレム1世ですが、実はドイツの貴族の出身で、成人になるまでカール5世に仕え、カトリックとして育てられました。

自由と寛容のため、カトリックにもかかわらず反旗を翻し、カルヴァン派に改宗して同盟に参加し、出生国ではない地方の人々のために私財をなげうって困難に立ち向かい、最後は凶弾に倒れたその勇姿は“祖国の父”の名に相応しいです。

17世紀にヴェストファーレン条約で独立が承認されます。国民に発表された6月5日は、2人の貴族がアルバ候に斬首刑にされてからちょうど80年後でした。

17世紀のオランダ

オランダ東インド会社が誕生し、日本を含むアジア諸国と貿易を行う。商業、科学、芸術が繁栄する。オランダが国際的な海洋大国としての地位を築く。

ネーデルラント連邦共和国として独立する。貿易で敵対するイギリスと戦争が起きる。フランスの侵攻など困難な出来事が重なり“厄災の年”呼ばれる危機に陥る。

英蘭戦争

海上貿易の覇権を巡ってイギリスとオランダの間で起きた一連の戦争。

1651年、イギリスがオランダ船の動きを大幅に制限する航海法を定める。

1652年、両国がドーヴァー海峡で衝突したことから、第一次英蘭戦争に突入する。イギリス優勢で進み、決着がつかないまま1654年に講和条約が成立する。

1664年、イギリスがオランダの植民地ニーウ・アムステルダムを占領し、ニューヨークと改名する。1665年、オランダの宣戦布告で第二次英蘭戦争が始まる。

1666年、6月に17世紀最大といわれる4日海戦がドーヴァー海峡であり、8月にイギリスがオランダ沿岸を焼き打ちにするなど、オランダ史上最悪の惨事が続く。

1667年、6月にオランダがテムズ川河口のイギリス海軍基地チャタムを攻撃し、ロンドンに迫る勢いを見せる。7月、イギリス劣勢のもとにブレダ講和条約が成立する。

1670年、イギリスとフランスが“ドーヴァーの密約”を結ぶ。翌年、オランダを攻撃するための同盟関係に発展。フランスがケルン大司教やミュンスター司教を抱き込む。

1672年“厄災の年”の2月、ウィレム3世を陸軍最高司令官に任命する。3月、イギリスの宣戦布告で第三次英蘭戦争、4月にフランスも宣戦布告し、仏蘭戦争が始まる。6月、オランダが連合艦隊に大打撃を与える。フランスにユトレヒトとナールデンを占領されるが、発動していた“ホラント冠水防衛線”で進軍を食い止める。ケルンとミュンスター軍が東部3州を占領する。7月、ウィレム3世を5州の総督に任命する。8月、ホラント州法律顧問のヨハン・デ・ウィットが暴徒に虐殺される。

1673年、連合艦隊との海戦でオランダが優勢になる。1674年、イギリスが単独で講和条約を結び、連合艦隊から脱落する。1678年、フランスとも講和が成立する。

なぜオランダが「Dutch(ダッチ)」なのか

17世紀のオランダは、オランダ黄金時代を迎えます。貿易で成功し、芸術と文化が発展し、科学や天文学などが進歩を遂げ、政治的・経済的に繁栄を極めました。

国際的に独立が承認されます。連邦共和国でありながら総督を持ち、各州議会の州法律顧問が政治の実権を握るという複雑な形態でした。

黄金時代のオランダは、社会学者ウォーラーステインにより最初の“ヘゲモニー国家”とされ、歴史家K.W.スワートにより“オランダの奇跡”と呼ばれています。

18世紀のオランダ

経済が低迷し、競争力が低下する。スペイン継承戦争やオーストリア継承戦争、第四次英蘭戦争などが起きる。政治的な対立と分裂が起き、中央集権的な指導が難しくなる。

フランス革命軍が侵攻してくる。ネーデルラント連邦共和国が崩壊し、事実上フランスの支配下になり、バタヴィア共和国としてフランスの属国となる。

バタヴィア共和国

フランス革命の影響で成立した共和国。フランスの属国で事実上の傀儡国家。

1789年、フランス革命が勃発し、1793年にイギリスとオランダに宣戦布告する。

1795年、フランスの侵攻に乗じて、共和制を求める愛国者運動派(愛国派)が亡命から戻り、オラニエ家支持派(総督派)と戦う。ウィレム5世がイギリスに亡命する。愛国派が無政府状態のオランダ各地に臨時代表部を設け、権力の奪取を進める。フランスがオランダを占領し、愛国派と条約を結び、バタヴィア共和国となる。

※総督派を追放し共和制体制となったが、改革や政治はフランスに従属的だった。同盟条約はフランス軍の戦費負担などの財政支出をオランダに強いるものだった。

※国名は、亡命していた愛国派の多くがバターフ人を名乗っていたことから。

オランダの歴史の年表とは

18世紀のオランダは、繁栄の反動で衰退し、世界史の中心軸から外れていきます。各種の税が上がり、輸出価格が高くなっていき、競争力を失います。航海法や高関税政策など、小国オランダを狙い撃ちした大国の政策も打撃になっていました。

名誉革命でウィレム3世がオランダ総督とイギリス国王を兼ねたことから、新たな戦争にまきこまれました。膨大な戦費を費やし、軍事力は制限され、貿易が落ち込み財政は破綻状態に陥り、以後中立政策に転換を余儀なくされます。

ウィレム4世が初の全州総督となります。しかし、ウィレム5世が第四次英蘭戦争で信頼を失い、フランスの侵攻でイギリスに亡命。連邦共和国は崩壊します。

19世紀のオランダ

皇帝ナポレオンがバタヴィア共和国を廃して、フランスの属国のホラント王国を作る。

ホラント王国がフランスに併合される。ナポレオン敗北後、ネーデルラント王国が成立する。経済基盤を整備し、経済成長や産業化が進む。ベルギーが独立する。

ネーデルラント王国

オランダにオーストリア領低地地方(現在のベルギー)を併合した立憲君主国。

1813年、ナポレオンが連合軍に敗れたのを機に、3人の総督派の貴族が中心となり、オランダとルクセンブルクからなるネーデルラント王国として独立を宣言する。ウィレム6世をイギリスから呼び戻し、国家元首ウィレム1世として宣言させる。

1814年、新憲法を制定し、立憲君主制の国家となる。ナポレオン戦争が終結し、オラニエ家の復活が正式に認められる。

1815年、元首ウィレムはネーデルラント国王ウィレム1世に即位したことを宣言し、同時にルクセンブルク大公も名乗る。ウィーン会議でこれが認められたほか、オーストリア領低地地方がオランダに併合され、ケープ植民地やセイロン島などがイギリスの領有となり、東インド諸島がオランダに返還される。

ウィレム1世を国王とするネーデルラント王国が正式に発足する(前17州からなり、ルクセンブルクは大公国として別扱い)。オラニエ家最初の国王がここに誕生し、これが現在の王室の先祖になる。

オランダの正式名称や通称とは

19世紀のオランダは、ネーデルラント王国が成立します。フランスの属国になった後に併合され、一時的にオランダが地球上から消滅しますが、建国を果たします。

財政を立て直すため、運河網の整備、鉄道の開通、慈善事業会社や商事会社、銀行を設立するなど振興に力を入れ、経済は危機を脱し、成長へ向かいます。

カトリックが多かったベルギーで、宗教や教育政策、言語政策などの不満から暴動が起きます。臨時政府が樹立され、独立が宣言され、憲法が公布されます。激しい戦いが繰り広げられ、最終的にベルギーの独立を認めます。

ウィレム2世になると自由主義に転換し、憲法を改正します。議院内閣制が実現し、近代的な立憲君主制になり、やがて政党政治が始まります。

20世紀のオランダ

第一次世界大戦で経済的な影響を受ける。第二次世界大戦でナチス・ドイツに占領され、厳しい統治と迫害を受ける。

戦争終結後、復興が進む。大洪水が起き、デルタ計画が始まる。経済成長を遂げ、社会的に進展する。ヨーロッパ経済共同体の設立に貢献する。

第二次世界大戦

ドイツ軍のポーランド侵攻から始まり、独ソ戦、太平洋戦争と拡大した世界戦争。

1939年、ウィルヘルミナ女王が、今後とも厳正に中立を守っていくことを表明した4日後、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。

1940年、ドイツが宣戦布告なしに侵攻してくる。王室や閣僚がイギリスに亡命する。爆撃され政府は降伏を発表する。中立は放棄され連合国側につくことになる。

以後ドイツの占領下になる。政治活動は禁止され、批判的な者は拘束され、生活物資が配給制になり、不自由な生活を余儀なくされる。10万人以上が強制労働に駆り出され、10万人近くのユダヤ人が強制収容所に送られる。地下組織の抵抗運動が盛んに行われ、亡命政府の抵抗の呼びかけに合わせて地下新聞が発行される。

1944年、連合国軍がドイツ軍を追い詰め南部3州を解放するが、全土の解放には至らず冬になる。中心部のドイツ軍の力を奪うため電気や石炭の供給を止める。対するドイツ軍も食料の供給を止めたため、2万人以上の餓死者が出る(“飢餓の冬”)。ドイツ軍が各地の堤防や橋を破壊し、約37万5千ヘクタールの土地が水没する。

1945年、連合国軍が攻勢を強める。ドイツ軍が降伏し、オランダが解放される。

※太平洋戦争の過程で、日本軍はオランダ領東インドへ侵攻する。

1941年、南方作戦でジャワ島などを狙う日本が、真珠湾を奇襲攻撃する。オランダ領東インド総督が日本に宣戦布告する。

1942年、日本がオランダに宣戦布告する。日本軍が植民地の中枢ジャワ島を占領し、オランダ植民地軍が降伏する。植民地支配が事実上終わる。

終戦まで日本軍の軍政が始まる。オランダ人の兵士や民間人のほとんどが強制収容所に入れられ、数万人ともいう犠牲者が出る。

オランダの歴史の年表とは

20世紀のオランダは、第二次世界大戦でドイツに占領されます。戦後は復興を遂げ、西ヨーロッパの一員として国際協調と国際機関への加盟の道を歩みます。

第一次世界大戦でも中立を守りました。戦時中にゾイデル海沿岸で大洪水が起き、戦後の復旧と開発計画の一環で、締切大堤防が建設されます。

植民地支配を復活させようとして国連から非難を浴び、最終的にインドネシアの独立を認めます。ゼーラント州を中心に大洪水が起き、デルタ事業が計画され、洪水や高潮から守るため、大河の河口に広がる島々を結ぶ堤防の建設が始まります。

石油危機で“オランダ病”と呼ばれる困難に陥りますが、ワークシェアリングなどの導入による失業率の減少と雇用の創出で窮地を脱する“オランダの奇跡”を起こします。

現代のオランダ

移民や難民を受け入れ、多様性を尊重する多文化社会としての特徴が際立つ。同性婚の合法化、安楽死の合法化など社会的な変化が進む。

金融危機やヨーロッパの経済状況の影響を経験し、経済の多様化を拡充する。気候変動対策や再生可能エネルギーの利用、環境保護などに取り組む姿勢が強まる。

オランダの総督・君主(オラニエ=ナッサウ家)

ウィレム1世:総督。蜂起の先頭に立った“祖国の父”。

マウリッツ:総督。ウィレム1世の次男。八十年戦争で軍事的な才能を発揮する。

フレデリック・ヘンドリック:総督。マウリッツの異母弟。軍事と政治に優れる。

ウィレム2世:総督。フレデリック・ヘンドリックの長男。戦争を終結させる。

ウィレム3世:総督。ウィレム2世の長男。英蘭戦争で活躍。イギリス国王も兼ねる。

ウィレム4世:総督。ウィレム3世の従弟の孫。初の全州総督となり世襲を宣言する。

ウィレム5世:総督。バタヴィア共和国の成立により最後の総督となる。

ウィレム・フレデリック:初代国王ウィレム1世。およびルクセンブルク大公。

ウィレム2世:第2代国王。自由主義に転換し、王権を制限する憲法改正を認める。

ウィレム3世:第3代国王。3人の王子が早世する。自由主義の全盛時代を過ごす。

ウィルヘルミナ:第4代女王。男系継承のルクセンブルクとの同君連合が解消する。

ユリアナ:第5代女王。戦後の荒廃からオランダ立て直し、再び繁栄をもたらす。

ベアトリクス:第6代女王。国外訪問や慈善活動など国際的な友好関係を築く。

ウィレム=アレクサンダー:第7代国王。123年ぶりに男性の国王として即位する。

オラニエ=ナッサウ家の成り立ち概要

21世紀のオランダは、政治的な安定と経済的な発展を遂げています。戦後の復興から数十年で経済的に成長し、国際協力や国際問題に活発に取り組んでいます。

再生可能エネルギーや環境保護に力を入れ、風力発電や太陽光発電の普及などを進めています。技術革新の分野で進歩し、新規企業や研究機関が成長しています。

社会的平等と人権の尊重を重視していて、LGBTQ+の権利やジェンダー平等などに関する議論や取り組みが行われています。

移民の受け入れが重要な問題で、社会的共存や統合に関して議論されています。住宅の不足や価格の高騰、都市化に伴うインフラ整備なども課題になっています。